金はチケットである
金はチケットである
金はチケットだ。
美味しいものを食べたり、サービスを受けるための交換手段である。
金はあればあるほどよい。より良いサービスを受けられるからだ。
ただ、金がそこにあるだけで幸せなのかというと、たぶんそうじゃあないと思う。
金の入力
金はどこからくるのだろう。
今日食べたご飯や、受けたサービスは、金を使って得られたものだ。
自分の場合、基本的には、金は会社から得られたものである。
会社はなぜ自分に金を払うのだろうか。
それは自分が、会社にサービスを提供した(もしくはするという契約を結んだ)からである。
富を創りだせるからこそ、金を払うのである。
金を手にすることは困難だろうか。
確かにそれは難しいことではある。
ただ、価値を提供できれば、それ相応の金を得られるはずだ。
単純に、金を稼ぐことは楽しい。
サラリーマンをやる上でも、給料が上がらないというのは面白くない。
富を創ること、が、完全に金に結びつくかはわからないが、
富を創ることで、お金をいくらでも得られるのだとかんがえると、
人生はいかに楽しいものかと思う。
現状の金の入力に満足出来ないなら、
自分が価値を提供できていないのだと振り返ることができるはずだ。
価値を生み出せるはずだと信じて、富を創る行動を始めたら良いと思う。
金の出力
金を使うのは簡単だ。
金は使えばすぐに無くなる。
サービスは、その相互の関係において値段が付けられる。
そういう意味で、納得出来ないサービス(買い物)はすべきでない。
そしてまた、納得出来ない価格(給料)でサービス(仕事)すべきでもないはずだ。
金とサービス
単純に、金を使うのは楽しい。
一般的に、良いサービスほどお金がかかる。
そういう意味で、金はチケットだと思う。
いつも行っている美容室で、普段髪を切るのに 3000 円かかるとしよう。
たまたまその美容室が混んでいて、どうしても髪を切りたいあなたが
たまたま入ったおしゃれな美容室は、すぐに髪を切ってくれて、 6000 円だったとしよう。
それでいつもよりクールな髪型になるんだ。
より良いサービスにはお金がかかる。
あなたはより良いサービスを受けたいと思う。
それにはチケットが必要なのだ。
(蛇足ではあるが、普段のサービスを受けるためにもチケットは必要である。)
金と価値感
一度良いサービスを受けてしまうと、元のサービスに戻るのが耐えられないと言うのは真実だと思う。
自分が富を創ることでお金を入力し、自分が良いと思うものにお金を出力する。
すごく自分勝手に聞こえるかもしれないが、日常の支出をメタに書いただけである。
金をどう使うかは、その人の価値観に依存する。
良いサービスを知らない、受ける必要がないなら、お金を稼ぐ必要がない。
断捨離というやつかもしれない。
仏教的に、ただ生かされているんだというロックで生きるならそれで良い。
自分は仏教的な考え方にはある種賛成だけど、それを楽しむなら人生長すぎると思う。
だから現時点では、仏教的考え方もあるなぁと思いつつも、
精一杯富を創る(サービスを提供する)ことに全力を注ぎたい。
自分が金を出力して受けたいサービス
振り返ってみると、基本的に自分が受けたいサービスは、音楽と勉強と食事と服と程よい住まいだ。
より良い音楽を楽しむ方法にはお金をかけてみたいし、
より自分がよく価値を提供できるように勉強(主により良い本をよんだり)したいし、
より美味しいものを食べて(いたい|みたい)し、
自分が着たいと思った服を着たいし、
自分が便利だ!、と感じるところに住みたい。
逆にいうと、ちょっと考えたくらいだったらこんなもんなのかと思う。
富として生み出したい、金以外の価値
金はチケットであればあるほどよいが、富を創ることで金以外に得られるものは、本質的には金より重要だ。
富を創るために時間を使うのは、自分の価値観では、とても有意義なことである。
所感
ふとポエムを書きたくなったので書いた。
ハッカーと画家を読んだせいで、最近のポエム熱がやばい。
おそらくこの文章も富である。
ただこの文章にお金を払う人がいないだけだ。
そういう意味で、文章を書き続ける(ブログ他)ことは、
富を生み出す行為だと思う。
ふとどうでもよいことを思ったが、仏教をロックと割り切るなら、この文章もロックであるはずだ。